沿革

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瓶割峠(かめわりとうげ)は、人里に近い山中にあります。その時代ごとに、人々と共に歴史を刻んできました。

 

江戸時代…本街道であり、生活道。また、西国三十三カ所の巡礼道であり、播磨の圓教寺や清水寺から丹後の成相寺へ向かう一行で賑わった。名称:追入坂(おいれざか)・追入峠(おいれとうげ)・瓶割坂(かめわりざか)・国領坂(こくりょうざか)・国領峠(こくりょうとうげ)など

江戸時代中期…国領側の峠が急坂につき、ある巡礼者の寄付で大改修される

江戸時代後期…峠の山頂付近に大師堂建立

明治25年…周辺の県道編入運動に巻き込まれ、県道廃止となる

明治26年…新道(通称軍隊ルート)新設 しかし国領側の新道は自然災害により崩壊

明治32年…阪鶴鉄道(現福知山線)開通。交通の要所としての役割が少しずつ変わっていく

昭和時代…戦前戦後は国領周辺の小学生は桜の咲く頃にこの峠を越えて鐘ヶ坂へ花見に行っていた。のち、人の往来がほとんど無くなる

平成17年…大山村・国領村解村50周年両村地区交流会が開かれる

平成24年…峠整備活動(国領側・大山側古道の一部)

令和4年…再整備(国領側)

令和7年…「大阪・関西万博2025」ひょうごフィールドパビリオンに、瓶割峠プロジェクトとして参画